音楽を聴くことが生きがいとなっている僕の、音楽の聴き方の話。
僕は基本的に好きなアーティスト、好きな曲しかプレイリストに入れていないが、その瞬間(とき)の気分によって曲送り(曲飛ばし)を頻繁に行う。
また、一曲が終わる度に次に聴きたい曲を選ぶことも多く、4〜5分おきにiPodや携帯を操作してしまうことは決して珍しくない。
通勤中を例に挙げる。
歩きながらの移動中はどうしてもバラードは飛ばしがちになる。自分の中のテンションを上げるために、BPMが速めの曲やその時にハマっている曲を選びがちだ。
却って、電車の中だとバラードを積極的に聴くことがある。音数よりもボーカルが紡ぎ出す言葉の羅列を噛み締めることにより集中できるからだ。
通勤時間は大体決まっているため、行き帰りでセットリストが同じ、ということも珍しくない。
そして、最後の曲(職場に着く直前の曲)は特にこだわって選ぶ。
なぜなら、その曲が終わると、流れてくるメロディも耳に触れている相棒も長時間離れてしまうから。
いわば、別れの前の、自分自身に向けて贈るファンファーレ。
大袈裟かもしれないが、僕は日々そう感じながら選曲している。
つまり、僕にとっての選曲というのは、欠かすことのできない、"作業"を超えた"義務"なのだ。
ここで、10年くらい前に出会った衝撃的な出来事を紹介する。
同級生と話をしていると、
相手「好きな曲があって…。」
とふと音楽の話になった。
僕「何ていう曲なの?」
相手「わからない。」
僕「えっ、好きなんだよね?」
相手「音楽プレーヤーに入ってる全曲をシャッフルで聴いてるから、タイトルは知らない。」
僕「じゃあその曲を聴きたくなったらどうするの?」
相手「流れてくるのを待つしかないね。」
その子は明るい口調で笑ってそう言った。
「いやいや…。信じられないんだけど…。」
心の中でそう呟いた。
その子のことを否定する訳ではなく、僕からしてみたら聴きたい時に聴けない曲があるなんてストレスだ、という意味だ。
だけど、そんな発言を受けた僕はあるシーンを思い返していた。
それは、そこから少し遡った頃のこと。
僕が高校生の頃の、大学生の兄とのほんの些細なやり取りだ。
何気なく兄のパソコンを見ると(隠れてではないですよ、同意を得ています)、iTunesに入っていた多くの曲の再生回数がほぼ同じだった。
気になった僕は兄に聞いてみた。
僕「好きな曲をヘビロテしたりしないの?」
兄「あんまりしないね。全曲シャッフル。」
僕「えっ、じゃあその時に聴きたいなと思う曲があったらどうするの?」
兄「うーん、そう思うことがほとんどないかな。」
全曲シャッフルだと、特定の曲に出会う確率は数百分の一(細かく言えば違いますが)。もはや、千載一遇かと言わんばかりだ。
同級生と兄はその都度流れる音楽を機器に任せている点で共通している。
一方僕は機器の意図に逆らうように、その瞬間(とき)の感情で好きなように選んでいる。
これは、人生という大きな単位でみてもそうだった。
僕はどちらかというと甘やかされて育った方だと思う。叱咤された記憶はあまり多くない。
決して裕福な家庭ではなかったが、不自由なく生活させてくれた両親には感謝している。
末っ子ということで、時には兄より良い待遇を受けたこともあった。
兄は両親と同じ2児の親となった今、そんな当時の僕をどう思っていたのだろう?
また、今の僕のことをどう思っているのだろう?
「多くの選択肢から気分によって選り好みする」という性格(あくまで音楽の場合ですよ)はあまり聞こえが良くない気がするが、「好きになればまっしぐら」というニュアンスで捉えると特長となり得る。
まあ、どんな表現も表裏一体なのだから、プラスの方向で捉えることにする。
性格はそう簡単には変えられない。
プラスの面をさらに引き出して発揮できるよう努めていきたい。