はじき銀舎の地味日記

地味な生活を送る、冴えない男の日記

図々しくいこう

性格は簡単に変えられない。

だから面白い、と誰かは云う。

 

それは多様性にもつながる。

だから無理に変える必要はない、と誰かは云う。

 

 

 

 

 

ここ数ヶ月の間でいくつかの性格診断テストを受検した。

 

自分の性格がどんなものであるかということはある程度分かっているつもりだが、客観的な指標や評価を言語化したものを得るために。

 

その中でも全てのテストにおいて顕著に振り切れた結果が出てるのが「慎重性」である。

 

・イベントに積極的でなく、行動を起こすのに時間がかかる。のちに行動を起こせなかったことを悔やむことも多い。

・頻繁に取り越し苦労をしてくよくよ悩む。

・気弱で引っ込み思案。

 

これらの要素はまさにその通りだといえる。

 

前提として、性格の長所と短所なんて表裏一体で捉え方によってどちらにも転ぶ、なんてことは百も承知。

極端に足りないものだと思ってても、この上ない魅力に映ることもきっとある。逆も然り。

 

 

テストの結果にはアドバイスが付与されているのだが、"もう少し図々しくあれ"というものがあった。

思わず笑ってしまった。

 

 

 

自分で言うのも変なのだが、僕には"図々しさ"がまるでないと思う。

 

 

一人で外食をしようという時に、お店の混雑状況を確認すると行列が出来ている。

…諦める。

 

演説者にどうしても聞きたいことがあるとする。だが、周りには質問したいと思っている人がいる。

…諦める。

 

バスの2人がけシートや電車の1席だけが空いている。

…座らない。

 

 

並ぶことや座ること=図々しい、という訳ではない。

質問する人=図々しい人、と言いたい訳でもない。

 

 

考えてみたら、日々の生活で要らない遠慮ばかりしている。誰のためでもないはずなのに。

だから、「何故?」「何のためにそんなことをしてるの?」と聞かれても答えられない。

性格がそうなんだから、としか言いようがない。

 

 

 

例えば、自動販売機で誰かに飲み物を買ってあげるシチュエーションがあるとする。

 

自分だったら、その人に何が飲みたいかを聞いてからでないと買うことができない。

 

それは、「要らない」とか「こっちの方が良かった」と言われるのが怖くて避けたいという、ある意味では"逃げ"なのかもしれない。

 

 

 

この"逃げ"の姿勢は、相手に気を遣わせたくない、不要な労力を使わせないようにする特有のものだと思っている。

人によってはそれを面倒な人間だと思うかもしれないが、誤解をされたくないが為に敢えて前置きを作ったり説明過多になってしまう。

 

 

 

 

僕が"逃げ"のスタンスになったのは中学1年の時の出来事がきっかけだ。

 

 

 

 

移動教室である音楽の授業で席割りを決めることになり、僕は全く喋ったことのない男子と隣同士になった。僕と彼は違う小学校から上がってきて、通常の教室でもそれまでまともに話したことが無かった。

 

僕は彼に対して凄く真面目で真剣に授業を受けるイメージを抱いていたため、僕も一切無駄な会話をせずに真面目に授業を受けていた。

 

これが間違いだった。

 

そんな授業を何度か繰り返したある日のこと。偶然にも、彼が仲の良い友人に陰で僕のことを話しているのを耳にしてしまった。

 

 

「あいつは何も喋らなくてつまらない」

 

 

衝撃的だった。

瞬間、心を抉られたような気がした。

近づけようとしていた距離は反対に引き離されていた。

気を遣ったつもりだった。それが裏目に出てしまった。

そして、その距離はその後一向に縮まることはなかった。

 

 

ここから僕の学校生活が少しずつ壊れていったと言っても過言ではない。

 

 

そう、この男子は後に以前の記事で触れたいじめグループの一員となるからだ。

 

 

hajiki-ginsha.hatenablog.com

 

 

 

あの時、普通に会話を振ったりしていれば僕の中学時代はマシなものになっていたのだろうか?

あの時、中学生らしく人間臭く、ある意味で"図々しく"接することができていれば拗れた性格にならずにいたのだろうか?

 

この一件が契機となって、独りを好むようになり、自分の殻に閉じこもることが楽で傷つかない最善手だと知った。

同時に、人と接する時は前述の"逃げ"の姿勢を貫くことが必要だと感じた。

 

 

 

 

 

と、過去の経験に触れたが、人との付き合い方はあまり深く考えすぎてもいけないのかもしれない。

 

King Gnu『白日』にはこんな一節がある。

 

後悔ばかりの人生だ

取り返しのつかない過ちの

一つや二つくらい

誰にでもあるよな

そんなもんだろう

うんざりするよ

 

 

戻ることができないのが人生。

日々の出来事のひとつひとつが、取り返しのつかないとまではいかなくとも、過ちと解釈できることの連続なのかもしれない。

 

だが、先のことは如何様にもできるのが人生。

日々の出来事のひとつひとつには確然とした正解が存在しないが、それでも答案用紙を埋めていかなければならない。

 

 

 

 

 

他人に迷惑をかけても気にしない、自分勝手で無遠慮なさま。

"図々しさ"という言葉の意味をそのまま解釈しようとすると、

とても良いニュアンスで捉えられるものではないだろう。

だが、"図々しさ"が極端に欠如しているのも人生を渡り歩くのに大きな障壁となり得る。

僕にとっては"図々しさ"を意識して行動するのが望ましいことなのかもしれない。

 

 

 

 

 

性格は簡単に変えられない。

だけど、長期的にみれば日々の意識の積み重ねでより良いものに変えられるはずだ。

だから面白い、と僕は思う。

 

個性の集まりは多様性にもつながる。

だから無理に変える必要はない、だけどより良い個性の集まりはより良い多様性につながるはずだ、と僕は思う。